ヨーガ・スートラの学び

未分類

こんにちは。さきです。

突然ですが、ヨガは身体の運動だけではない哲学の学びがあります。
なぜヨガで哲学なのか、という話はまた今度ということにして(気になる方は調べてみてください)、ヨーガ・スートラを読み進めていく中で、この言葉がふいに心に残ったのでご紹介します。

病気、無気力、猜疑、散漫、怠惰、好色、妄見、不動の境地に至り得ない状態、獲得した地歩からの滑落-これらの心の散動が、その障害である。

インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ 1章30節

しょっぱなから心がざわつくワードが並んでいますが…
この一節の最後、「その」障害とは何の障害になるのか。
これはそれぞれの著者や訳者、読むその人にとって解釈は異なるものだと思います。なのでここではあえては書かないでおきます。正直なところ、わたしも今はこれらが何の障害になるのか、はっきりと言葉には言い表せられない気がします。

しかし、障害になるものそのものが、今の時代になんと溢れていることか、と思いました。

病気。
言うまでもなく、この数年世界を一色に染めているウィルス。
無気力。怠惰。
この数年の環境変化で無気力を感じる高校生・大学生が増えているという調査結果も。
猜疑。
遠い空の下ではじまってしまった争いと傷つけ合いも、この猜疑心からはじまったことではないかと思います。
散漫。
情報過多でひとつのことに集中することがいかに大変なことか。
この後に続く言葉も、少し思い巡らせれば心当たりのあることばかりではないでしょうか。

こんな環境で、こんな世の中で、「不動の境地に至る」ことなんて至難の技としか思えません。

どんな状況であっても、わたしたちは皆社会生活を送らないといけなくて、「障害になるもの」から逃げることはできません。
でも誰だって、安心して安定した生活を送りたいと思っているはず。
そのためにひとりひとりができることは、自分の手の届くところから平穏を積み重ねて、地を踏みかためていくことかなと考えています。

わたし個人の話で言うと、毎日のヨガの練習が、手の届く平穏を重ねていく支えになってくれたという自覚があります。自覚というか、確信です。

世界中にウィルスが駆け巡っていたはじめのころです。当時は中国に住んでおり、帰国したのはいいけれど、子ども2人と自分、トランクひとつだけで住み慣れた家を遠く離れて、帰れないストレスと、子どもに対して感染させてはいけない責任と緊張と、これからどうなるのか見えない不安でいっぱいでした。

そのタイミングで、アシュタンガヨガの毎日の練習をはじめました。アシュタンガヨガ自体はそれ以前から取り組んでいましたが、朝の自主練をやりはじめたのがここでした。

この毎日の練習がどれだけ支えになってくれたか。
日中なかなかとれない自分だけの時間を持てているという充足感もそうでしたし、呼吸と自分の身体感覚に集中している時間が、落ち着きをとりもどしてくれていたと振り返って思います。
先の見えない不安やたくさんの情報に振り回されていても仕方がない、と思えるようになっていました。
この日々の練習をやっていなければ、いろんなことに追い詰められて、毎日イライラして投げやりにもなっていただろうし、無気力にもなっていたかもしれません。

毎日決まった時間に練習して集中する時間をつくって
変わらないことをくりかえしくりかえし行うことは、生活の安定・心の安定につながっていたと確かに思います。

それを、わたしは伝える仕事をしたいと思っています。

要は、みんなヨガやればいいんだよ!
てことです笑
簡単に言い過ぎですか?でもほんとにそういうことだと思っています。

ヨガクラスでは、哲学とか難しいことはなしで、シンプルに体を動かして集中しましょうということでやってます。ここだけの話です。
こんな話を読んで、行きにくいなとか思わないでくださいね!

さき

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました